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73876
1 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:25:10
宇宙は巨大な人間である
すべての人間はそのそれぞれのパートを生きている
重要なのは魂である
魂が死んだ人間になってはならない
理性がときに魂を殺す

2 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:30:01
魂とは何か?
それはすべての時代の芸術を余すところなく集約したものである
一人一人の人間にはもともとそのすべての芸術が連結し、凝集し理解できるようになっていた
だが、表面上は理解できないものもある
だが、それは、それが欠損しているということを意味しない

3 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:39:47
人間はもともとは共存在であり切断された孤立した存在ではない
理性が魂を殺すというのは、この共存在性を殺すのだ
この共存在にして、更に相互共存在(社会)でもある
この相互共存在と共存在を主観だの客観だのといって理性はときに魂を殺す

4 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:45:00
芸術とは魂の叫びを思うように吐露できることに大きく負っている
そして脳内麻薬である
魂の叫びの露見は理性が魂を捕らえ切断する前に肥大し
その理性を押し返しバランスを保たせる

5 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:54:06
芸術に関心を寄せる者にもそうでない者にも
先行する芸術家というものが存在し
通常の幼児ならば、自分もその一員であると思う
彼らは知らないのに、彼らは自分を知っているはずであり
お互いに知っているはずだと思う
幼児はそう思い、そのステージに何ら悪く思わず参入しようとする

6 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/08(金) 21:58:40
それはお互いの間に隔壁があるなどと夢にも思わないからだ
道路を走る車が危険なものだと考えないのと同様である
その行為は命取りになる
だが、これこそ生の本来の躍動である

7 名前:1@CLIE ◆GodOnnFcO. :2005/07/09(土) 02:46:27 ?#
生に意味などない

8 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 13:03:57
>>7
電波板の人って電波なカキコするもんだと思ってたけど、そうでもないんだね。
あ、でもそうマジレスしたと俺が書くこと自体が痛いってのを狙ってんのかも。(と無理に深読み)
まあ、俺はふと思ったこと(まあ、電波だろうと思えること)を落書きみたいに書いてるわけで、
それを否定されても「はい、そうですか・・」ってしか言いようがない。
その日によって言うことも多分違うかもしれんから。
まあ、議論する気がない。
削除依頼したい人はしていいけど、俺は議論するつもりはありませーーーーん。。。

9 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 13:12:10
さっき、何を思ったんだかな。。。物忘れが激しいなあ。
精神とか魂の問題だった。
精神とはある意味、金銭の量にも関わるのである。
賃金。労働したことに対しての褒美。
そこでの商品との交換の可能性の増大。
どの職場、どの仕事という様な具体的な問題もあるが、
ここではその具体性を抜きにした抽象性を問題としている。
抽象性とは言っても金銭という経験的なものを問題としているわけで、
その経験性をも抜きにした抽象性とも違っている。
ある程度、最小限の具体性はあるということを前提とする。

10 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 13:21:26
別の話。

怪我をして仕事を辞めていて、人との接触が少なくなっていた。外出も少なくなっていた。
昨日、CDショップ、レンタルヴィデオ、ユニクロに行ったのだが、何か自分が異常である
様に思えた。何か浮いてる気がした。
多分、街を毎日のように歩いていて、商品などを見たりしていると、その回数、その量によって、
何らかの「慣れ」を獲得出来ているはずなのだ。それは、自分が浮いていることに慣れるというもの
ではなく、無意識的な浮いてることの修正が生じてきて、その浮くということ自体が消えて様になる状態に
なることなのである。これは、思考によってカバーするのは相当困難で、経験による条件反射が大きいと思える。


11 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 13:31:03
それは一つの鸚鵡返しみたいなものだ。
気が付けば出来ていたというもの。
それは、語り得るものであり、その語り得るものだけを明確にすること。
その量を多くすること。
語り得ないものを語るというのは、神秘的なものに関心が行き易い性格による場合のみ
ではなく、その語り得るものの量の余りにもの少量さがその様なところへ促すということも
考えられるのではないのか?
それは身体からも来る。何か前かがみになってる姿勢も、ある種そういう傾向を含むのではないのか?

12 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 14:01:51
>>9
なぜその具体性とは別のことを問題としたかというと、
多くの人々はその実際の労働に於いては転職の危機に迫られるような
ムカつくこと、鬱になるようなことが大いに起き得る。
だから、金銭を溜めてアパートを借りて、車を買って、彼女を作って、結婚して・・
ということも場合によっては妨害され、夢のまた夢に終わるということも可能性も、
大いに有り得るというまあ、当たり前なことで頭を充満させることとは別個のことを
問題としようと思った。論理的に言えば金銭(賃金)を溜めれば、アパートも、車も、結婚も
ほぼ間違いなく、(超特殊な場合を除き(例えば地球が吹っ飛ぶとか、自分の顔が化け物みたいな顔をしているとか))
手に入るというのは当然のことである。
(超特殊の場合と言ったが、それをこの論理に持ち込むことは余計かもしれない)
そういう当たり前の事実(これは事実である。架空のことではない)、これは精神の根幹にあるのでは
ないのか?

13 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 14:10:49
金銭とはある意味、現実の実感、現実感なのだ。

14 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 14:30:15
現実感?ではそれは本当か?

俺は物体としての金銭から、その物体という現実性に従属して「今、ここに自分が在る」と
言ったようなものかもしれない。であれば、金銭でなくとも、りんごでも人間でも
現実感があると言えるのではないのか?
どうなのか?
あと、人によっては金銭をもってして現実感とはしない人もいるかもしれない。
ヒッチハイクして生きる人がいるとして、その場その場での金の稼ぎは、生きるためだけの
最小限の必要なことでしかなく、金銭以上に別のものに現実感を感じているかもしれない。


15 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 14:37:11
そうかもしれない。
だとすれば、「すべての人は金銭を以って実際に自分がこの世界に実在している感じがする」とは
言えないとしておこう。

だから、俺はそのうちの一つを問題にしているに過ぎない。
だから「ある人にとっては金銭を以って実際に自分がこの世界に実在している感じがする」
ということなのだ。
だが、そこには、それ以上の重要性はないとは言い切れない。
俺にはそう感じられるわけだ。

16 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 15:08:23
>>10>>11
この「浮いてる感じ」とは何か?
それは、一人だけ孤立し、取り残された感じが目立っている感じとでもしておこう。
これは、共存在としての自分では無くなってる感じなのだろうか?
人々に溶け込んで違和感が無い状態がいかにも共存在といえるのだろうか?
それは、スムーズなこだわり感のない身体運動である。
それは静止ではなく運動である。
だが、ただの運動ではない。
孤立した感覚の無い上での運動である。
その運動が元に戻すこともあれば戻らないこともある。

17 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 15:18:04
それは意識して直そうとしても直らない場合がある。
ただ、街を歩き、色々な視線に触れることの刺激から、無意識的
に自分を修正していることや、発想が得られることがあるので、
忍耐して街に慣れることによって功を奏す場合がある。

18 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 15:24:33
違和感なく馴染んだ、適応したというのは、それだけで、人々との共通言語を
手にしたようなものだから、それは語り得るものと言えるのである。
だが、その「治す理論」などというものは語り得ぬものである。
「治す理論」に意識を集中し過ぎるのは逆に「治っていない状態」を状態を前提
として立てるもしくは植え付ける危険性がある。
その場合、治したい欲求こそが治らない状態を作るとさえ言える。

19 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/18(月) 16:00:21
>>13で言った現実感とは、「この国に属する人は金銭によって買えるものは買えるし、結婚し
安定した生活をすることが許可されている」という現実感とでも言うべきなのか?
勿論、具体的な、実際のこの日本という国家は不備なところが多い。
だが、それを問題としているわけではない。
生まれた環境によっては子供のうちから借金を背負わされたり、1千万円騙し取られる老人など
確かに存在する。しかし、そのことが、「金銭は商品と交換出来、その商品によって、(あるいはと共に)生活
を潤し、その生活での同伴者との愛によっても精神を潤すことが出来る」という論理命題に進入するものではない。
「金ではなく愛だ」と言う人がいるかもしれない。
その人は、今言ったことを理解していない。
俺だって「金よりも愛だ」と思う人間だからだ。
俺はそれを否定している訳ではない。
ただ、別の問題を言っているのである。

20 名前:真琴 :2005/07/19(火) 12:43:31
>9 が言う「精神」という言葉で
「あるシステム(=躰)が〈全体〉のなかで成す動き」みたいなものを考えることにするなら
その「成しうる動きの活性」を決める一因子として

    精神とはある意味、金銭の量にも関わる

というのはそりゃそーだ、と思う。マルクスなんかだと
「経済基盤が上部構造を決める」みたいに言うんじゃなかったっけ…

「躰」は
別に物理的な肉の体だけからなるわけじゃなくて、
預金通帳の残高も「躰」の構成要素だし、
経験とか、友だちとか、どの街に棲んでるかとか、みんな「躰」を構成してる。

「躰」たちは複合しながら〈全体〉を構成しているので
「個」を切り出すことは厳密には出来ない。

>12 「金銭を溜めてアパートを借りて、車を買って、彼女を作って、結婚して・・」
というイメージがあまりにも素朴で
ワラエルというか可愛い。

http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/denpa/1121417754/107n-111

21 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 14:55:51
やべええええ
やべえええええ
まじでやべえええええええ!!!!

仕事バックれて今日で一週間目だ
安い旅館に泊まってはいるもののもう金がヤバい
携帯台5月分か4月分払ってねーのに6月分払っちまって止まっちまったし
何よりもうそろそろネットも出来なくなるなあああ
いやいや、それどころじゃねーーー
もうすぐ盆休みじゃねーか!!!
転職もろムズイ(ーー;)
浮浪者か死んでまうか可能性出てきた
つか、いつものことだがな
いつもの破れかぶれなんだが
いつもここで何とかなったりするんだがなああ
今回長すぎる

誰か金くれ

22 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:07:33
一応今日一日の分は払ってあるから明日の昼までは、ここにいられるんだが・・・
明日で仕事が決まるとは思えねーーー
車の中で新聞とか見て職を探すことになるんだろうが
この猛暑の中・・・・ハア
つか、もう仕事なんか嫌だ
なんかノイローゼが凄えーーきつい
この時期土方なんてどうなんだろうか?
何年も前に行ったとこ行ってみっかな
あのとき、人が多すぎて一週間のうち2日か3日くらいしか仕事がなくて
赤字になって、そこバックれた
飯3食付いて風呂もあったから、旅館に泊まって自分の金で飯食うに比べれば
無料(払わないでバックれたから)
腰掛目的なら絶好の条件だったな
何せ仕事ない方が俺としては良かったから

23 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:10:59
やべーーよ
書きたいこと出てきたのによおおおお
チキショウウウウウ!!!

24 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:19:55
で、何書きたいんだったかな?
忘れてちまったかもな

アニメおたくと映画おたくもしくはSF小説おたくの差異

なぜアニメおたくは気持ち悪がられるのか?
またなぜアニメおたくは気持ち悪くもなるのか?

適当に考えた
昔はアニメも映画もSFも当然なかった
勿論今でいう芸能界もない

でも歌舞伎とか何とやら芸能はあった
その歌舞伎を幼児に見せても幼児は理解できず
楽しめなかったとしよう
幼児が楽しめるのは紙芝居とかオモチャとかだろう

25 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:29:53
この歌舞伎とか何とやら芸能がテレビドラマとか、映画に近いものだったのに対して
紙芝居とかオモチャとかが、アニメに近いものであったと勝手にしとく

現代に於いてアニメとは半分は幼児向けのものだ
だが中には相当手の込んだ芸術といっていいものがある

だが、いくら手の込んだ芸術ではあっても、見る側は簡単に目に写せる
誰でも、幼児でも移すのは簡単だ
そして幼児は、その物語を理解しなくても「絵」というだけで関心を示す
その「絵」の対象が売られていれば、「普通の俳優」の写真よりも「欲しい」言う傾向がある
のではないのか?

26 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:39:02
そういうことは世間一般でも容易に思えるはずだ。
如何に芸術性のある「絵」とはいえ、「アニメ」というものは、幼児だって欲しがる
ものだ。と。
そうすると、世間一般から「この人も世間の通念というもの、つまり幼児だってそれを集めるという
ことをして趣味らしきものに出来るというくらの容易なもの、というその通念を知ってるはずだ」
「知っているならば、そのことで恥ずかしく思わないのだろうか?」と思われるかもしれない。
(実際恥ずかしいことではないのだとしても、そう思うことが慣わしになってしまっている可能性はある。
しかし、実際に恥ずかしいことなのかもしれない。俺はよう知らんが)


27 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 15:49:04
幼児というものは恐らくほとんどが、アニメに興味を示す。
だが、青年もしくは大人になって、興味を示す人とそうでない人とに分かれるのはどうしてなのか?
一つには実際に見ても面白くないという人がいるかもしれない。
だが、それは少数ではないのか?(何となくそう思う)
では、それ以外は、どういうことによってか?
恐らく、「アニメとは、世間体から見て恥ずかしいとか、モテナイ」ということを考えて、
意識的に面白くもないと拒絶するとか、憎むとかして、関心をなくすという人が結構いるのではないのか?
ある意味「アニメ」よりも自分がどう見られているか、どう見せたいかという方に意識を強く持ち
「アニメに関心を示さない」ということを一つのファッションとして、自分を造形しているといえる

28 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 16:01:43
とりあえず、アニメ好きを見る世間についてはこの辺までにしとくとして、
アニメオタクが今言った意味で気持ち悪がられるだけではなく、
見た目が実際に甚だしく気持ち悪くなる場合があるというのは何故なのか?

アニメとSFで比較してみれば、(SFオタでも気持ち悪くなっている人もいるだろうが)
まず、「文字」を読み絵を自分で想像するという、脳を活発に動かしているということ。
(アニメ好きで、SFも読む人は純粋にアニメのみ好きという人とは言えないのでここでは省く)
脳をその様に活字を一杯読むように使っていないと、脳のその回路が衰えてゆくのではないだろうか?
勿論、それ以外の回路は若々しいわけだから、特別自分が変わったなどとは気付けない。

29 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 16:12:46
「では、こういう事が言えるのではないのか?」とアニメのみが好きな人は言うかもしれない。
「自分達のように、アニメが物凄く好きな人達は脳のその回路だけ、他の人よりも敏感になっていくといえるのではないのか?
だとすれば、その回路はSF小説もアニメも好きな人のその回路に比べて、発達してゆくはずだ。つまり、アニメ画に関する感受性は
人一倍強くなる。一方の側はその回路はほどほどに強くなる。そして、文字を大いに読む回路は大いに発達する。
とすれば、自分達のようにアニメのみが好きな人にとっては自分達のような人しか生じないメリットがあり、
もう一方の側の人が得られないメリットといえるので、もう一方の側もある意味損をしており、どっちもどっち、
どっちがいいとも言えないのではないのか?」と。

30 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 16:20:00
なるほど、そう言われてみれば、そうかもしれない。
が、俺には何か違うように思える。
それは、麻薬と同じような言い草ではないのか?
確かにある感覚は発達することがあるにしても、
ここでは「気持ち悪くなること」ということが問題となっているのだ。
「確かに、その回路が退化してない人、気持ち悪くないと言えるかもしれない
が、自分達は、それだけ麻薬のような快楽を手に入れているのだから、両者同レベルだ」
と言っているようなものである。

31 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/27(水) 16:30:11
つまり、ここで、その回路「のみ」が発達していくことを誇らしげに言っているわけなのだが、
もう一方の側の人達のその同じ回路はそこまで発達しないにせよ、その人達のその回路には
何ら障害は生じていないのであり、その人達には更に文字を大量に読む回路の発達というのが随伴
しているのであるから、より広い範囲の回路に於いて活発であると言えるのである。
ある意味それは拡張的であり、ある意味道具を使いこなしているようなものなのだ。
(ここで述べたアニメのみ好きが、自分でも絵を描くというのなら、話はまた別である)

32 名前:赤チン博士@ ◆IVgdXngJC6 :2005/07/27(水) 19:35:35
つI

33 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 01:14:44
滞在を二日延長した。
明日こそ出ていかねば。

よって、恐らくこれが最後の書き込みになるだろう。

夜起きてて、昼間起きれない。
起きても部屋の荷物を車に戻すのが面倒で時間が掛ってしまう。
どうしても動こうとしない。それで、夕方近くになってしまい、
タイムオーバーってことになってしまうわけだ。
(ここの旅館はチェックイン、チェックアウトの時刻を厳格に定めているわけでは
ないが、気がひける)

34 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 01:22:14
片付けるのが特に面倒で嫌だった。
本とCDが多すぎて、それが、全部車に入りきらない。
だから、選別して、今借りているトランクルームにしばらく使わない分を
預けに行かねばならなかった。そして、その後の分を片付けて車に入れるというわけ。
その片付けが昨日ようやく終わった。
あとは、それを車に運ぶだけだ。
そのすっきりさが、何とか今度はいやいや体を動かさせるはずだ。
何とか出ることだけは大丈夫だろう。
問題はその後だ。
今回だけはヤバイかもしれない。

35 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 01:31:39
オナニーについて


さっき俺はYAHOOで将棋をやっていた。
それによって思ったこと。

指を使うということ。この実際の物を動かすということ、これが、知覚を
大いに刺激し、記憶も推理も上達させるようだ。

それは、将棋に限ったことではなく、学校の授業でノートに鉛筆などで書くということ
でも共通している。

オナニーというのは、自分のポコチンをしごくことによって快楽を得るわけだが、
そこでは、たいてい性の対象をイメージした上で為される。
このイメージとは実際の「物」ではない。
ポコチンは物ではあるし、しごく指も物ではあるのだが、その性の対象が実際の物ではない。

36 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 01:40:35
将棋というものは、将棋の本を読んだだけでは、まず強くなれないと言われている。
実際に対局し、しかもその回数をこなさねばならないとよく言われたものだ。
ということは、大抵の人々も将棋の本を読んで、すぐに強くなれないということを
意味している。それは、その本に書いてある局面に来ても、なかなか思い出せない
ということだ。それどころか、それ以前の問題として、実際に対局していないと、
その本を読むということ自体が困難なものでもあろう。それが、将棋とか囲碁などの
本の特徴なのである。

37 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 01:51:24
これは、恐らく実際に指という物を動かすということによる、脳への刺激が大いに
重要なものであるということを物語っているように思える。
将棋の場合は指という物が重要だ。
だが、会話というものではどうだろうか?
会話は、言葉というものが、重要である。
言葉は「物」か?といわれると面倒なので、とりあえず、それは置いておく。
ここでいう言葉とは「脳内」の言葉ではなく、実際に発せられた言葉である。
それは、実際の声帯という物によって、与えられた物理的波動としての音波によって
構成されるのである。

38 名前:6 ◆s5GmLcY2V2 :2005/07/30(土) 02:04:17
さっきの将棋の本の例も、この会話の例に適用できる。
単なるイメージだけの言葉では、身に付かない。
実際に会話をしてみなければならない。
それを多く積まねばならない。
体験を通さず、長いこと頭の中だけで言葉を発していると、きっと多くの
取りこぼしが生じる。
その体験を避け、長いこと頭の中だけで言葉を発する動機というのは、
恐らく、それを仕損ねること、つまり失敗することを恐れ、極力最小限の
失敗に抑えようとする考えによるものだろう。
勿論、そう慎重であってもいい。だが、それにも限度というものがある。
ある程度、頭がいっぱいになったら、それを外に出すべきだ。
それが、さっきの将棋の話と同じ理屈なのである。

39 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 02:05:59
↑名前間違った。

40 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 02:14:27
この実際の音波を伴って発せられる言語による会話というものは、
SEXとオナニーでいえば、SEXに相当する。
SEXはオナニーのように、その性の対象がイメージのみのものではなく、
実際に存在する人という物である。

そこで考えられるのはオナニーばかりしていると、実際にSEXするという、
そこに到るまでの諸々の技術、道具を使いこなすということを逸してしまいがちになる
ということだ。この道具とは、言葉や振る舞い、気遣いなどである。
つまり、バカになっちまうということだ。

41 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 02:17:01
ある意味、実際の人そのものとの対応が、実際の発声を伴った
会話に相当する。つまり、それは、実際の人間のようなものなのだ。

42 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 02:37:20
ポコチンという物を指という物でさするという行為自体が、ある意味イメージそのものの
ようなものであり、物とは言えないようにある意味変化していると言えるかもしれない。
そのポコチンという物、そして指という物、そしてさするという物理運動によるオナニーが、
実は最も非物質的であり、物質の連関を破壊、蝕む「イメージそのもの」といえるのではないのか?
「物質」でありながら、「物質」に最も遠い「非物質」のようなものになっているのでは
ないのか?それは、「蓄積」の対立物であり、「浪費」である。
「物」という側面によってカモフラージュされた「物」とは名ばかりの「イメージ」そのもの
ではないのか?

43 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 03:03:42
ある意味、それは「語りえぬもの」を語る無茶な行為である。

44 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 03:44:25
それは「動き」と思えるだろう。
だが、それは「動き」とは名ばかりの「静止」であろう。
そして、それは「消尽」であろう。


45 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 03:48:49
ある意味、それは一つの「殺戮」である。

46 名前:名無しちゃん…電波届いた? :2005/07/30(土) 08:35:55
それは、ある意味存在ではなく、存在の欠如である。
存在=善であれば、悪であり、善の欠如である。
それは、つまり、「存在しない」=「矛盾」というものである。

47 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 08:41:34
↑我輩

それは、全体からの分離である。
それは所有の暴力的行使である。
全体への崇敬の欠如である。

48 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 08:45:20
自分が存在するとはどういうことなのか?

ある意味、自分とは「自分のもの」、「自分の所有物」なのだろうか?
それには、結論が出るのか?
俺が思うにそれは出ない。
自分とは、「自分の所有物であるのかないのか結論が出ないもの」なのである。

49 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 08:50:13
自分とはある意味その「驚き」なのだ。
ある意味自分は自分を知らない。
だが、それが不憫というものとはぜんぜん違う。
自分を自分を知らないということ、これが、自分への興味、好奇心を産む。
そして、自分への尊敬、自分のファンになること、自分を偉大にすることなどが生じる。

50 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 08:54:33
自分の知っているところと知らないところ、
特に自分のまだ知らない偉大なところが出現してくるかもしれないという期待、
自分に対しての「礼」・・・これらによって「全体」と呼ばれる。

51 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/07/30(土) 09:15:58
それぞれ自分には「歴史」というものがある。
その「歴史」が格好悪いものであったとしても、
「あの時、ああだったんだよなあ・・」と話せることは、
それは、「記念写真」を眺めて、悦に入るのに似ている。
それは、ある意味その「記念写真」を見て
「自分の存在とその歴史」に祝杯を上げているのである。

52 名前:名無しちゃん…電波届いた? :2005/09/08(木) 09:04:31
73876オウトウセヨ
コチラ地球防衛軍
聞コエテイタラオウトウセヨ

53 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:02:24
愛、及びイエスについて

54 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:03:31
「愛」というものには「美」と「性欲」というものが付き纏う。
そして、それは実際の「具体的対象」抜きには語れない。
その「具体的」な「全体像」こそが問題なのであり、その「愛」という「抽象」的な「名」が
問題なのではない。

「イエス」という「具体的人間」が「神」であるかどうかという事が問題なのであり、
その「神」という「抽象」的な「名」が問題なのではない。


55 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:04:43
性欲とは言ったが、その行為次第では、それは「愛」とは呼べないかもしれない。
例えば、強制的に、相手の意思を無視した性交。
これは一般的には「愛」とは呼ばれない。

それは、了解出来るとして、「性欲を持ったら愛とは一切呼べない」というのには
首肯できない。

その「異性」の「美」への驚きと喜びから来る「愛」ではない「愛」は「アガペー」に
非常に近いものであろうが、その「アガペー」以外が認められないのだとしたら、
何故に、「美しい人」は作られたのだろうか?


56 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:06:24
一々「これは、アガペーであり、アガペーではない」等と考えながら人間は「愛」を
選ぶべきなのか?それは「観念」を優先させた観念による愛の監視、愛の検閲であろう。

おかしい。それは、「人工的」だ。それはまるで「律法主義的」である。

「イエス」という人間は生身の肉体を持ち、苦悩もした人間、そしてクリスチャンが言う
「神」であろう。それは「観念」ではないだろう。


57 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:09:28
その肉体は我々と同じように不完全なものとしてであろう。謂わばそれは「個」なのだ。
それは我々の「偶然」とは何ら変わらない。
我々が「価値あり」というときのその「価値」とは、その「個」であり、その「偶然」である上で、
それが実に「得難いもの」であるもののことなのだ。

その「個」もその「偶然」も我々には推測し難いものである。


58 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:10:25
例えば、「三角形とは三つの角を持つ」というのは、推理によって何とか
辿れるようなものであろう。
だが、実際の三角をしたもの(たとえば、定規)の色や重さなどは、そこからは推測
する事は不可能のように思える。

プラトンはこういうものに「価値」を認めないのではないのか?
だが、実際には、こちらの方が得難いのではないのか?


59 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:11:34
イエスとは果たして、プラトン的なことを伝えに来たのだろうか?

イエス自体が神であるという教えは果たしてプラトン的だろうか?

「信じる者は救われる」は果たしてプラトン的であると言えるか?
「律法主義者」を批判したり、「上に立とうとする者は人の下に立たねばならない」
というのは果たしてプラトン的か?
「祈るときは、目立たぬように祈れ」というのは果たしてプラトン的か?


60 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:12:59
俺にはこう思える。
「哲学するならば、目立たぬように哲学せよ」
「神を証明するために頭を痛めるよりも、実際に人を愛せよ」

61 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:16:14
「愛」というものにはそれを「擬人化」させるだけの必然性があるだろうか?
必然性がないとして、取り合えず、目的はどうあれ、擬人化させてみたとしよう。
この擬人化させたものには人格があるだろうか?名前は?
無いかもしれない。
あるいは、あるにしても、推理不可能=証明不可能であるか?
あるいは、その問い自体が無意味にして無駄であるかもしれない。
もしかしたら、その問い自体は有害であるかもしれない。


62 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:17:20
とはいえ、それが、無駄であり、有害であるかは即刻分らない。
ということは、まだはっきりしない今は考えてもいいわけだ。

「愛」に人格や名前があるかどうかは取り合えず分らないとしておこう。
では、矛先を変えて、
「愛」は「永遠」なのだろうか?


63 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:18:19
それぞれの「愛」は「具体性」から切り離されて存在するかどうかは、「眉唾」であるとしておこう。
だが、その「愛」の「具体性」が現に存在する場合、誰においても、「その愛は現に存在する」と
言えるだろう。つまり、「全ての愛の具体的なものが存在する人々」には「共通するもの」があるのである。

これは当たり前の話である。
「全ての「遅刻」の具体性が現に存在する場合、その遅刻は現に存在する」というのと同じであるから。


64 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:19:31
では何故そんな言い方をしたのか?

イエスの言う「愛」とは上に上げた「人類共通」の「具体的なもの」によって構成される「愛」がまず
問題だったのではないのか?ということ。そして、「それから切り離された普遍的な愛」の「実在」は
どうであるのかは、人間は「知らないのでいいのだ」という事ではないのか?
人間である以上、それを知ろうとする特性があるにせよ、そんなものは「大した価値があるものではないのだ」
そういったことで苦闘したことで「そうでない人よりも人間として上である」と思う人間は「勘違いをしている」
と言っているのではないのか?


65 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:23:11
イエスが神であるなら、イエスは何故我々と同じ肉体を持って現れたのか?
肉体は不完全であるにしても実に多くの巧妙な技によって構成されている。
それは壊れるにしても実に宝石のようなものである。
「具体的なものによって構成される愛」にしても、実に「得難いもの」として存在しているのだ。

66 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:30:54
問題なのは「愛」が「イエス」=「神」であるということか?

しかし、「具体的なものによって構成された愛」があるなら、
それが、イエスとも神とも知る必要も証明する必要もないのではないのか?

67 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 01:57:23
寧ろイエスという肉体を持つ人間がそれを媒介するものを拒否した
その結果としてあるのではないのか?
つまり「愛」を何か一つの絶対的なものに(あるいは恐怖と共に)置き換える
その「媒介」の拒否である。

68 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/26(月) 03:14:41
ということは、こういう事が言えるのか?

「愛」がイエスであるとか、神であると「知る」もしくは「証明する」ことは
却って、有害であったり、卑しかったりするということも、場合によっては言える
のではないか?

69 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/27(火) 17:57:07
俺は上でプラトンをコケにしているが、今日たまたまあったプラトン入門を読んでみた
ところ、どうも俺の誤解であったようだ。
プラトンの説く「愛」は性欲から切り離した普遍的な「愛」のことで
性欲を蔑んでいるという説は、キリスト教が作り出したもので、プラトンの教えは
実際はそうではないということ。実際にプラトンは何冊か読んでいたが多くを忘れてしまっていた。
(俺は記憶力が悪い)
プラトンはまず、感覚で捕らえられる「美しいもの」から出発し、そして普遍的な
「美のイデア」に向かったのだった。
その辺はアリストテレスと大差は無いと思える。

70 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/27(火) 18:00:47
プラトンは誤解されがちだが、(俺も誤解していたが)考えてみれば、
『パルメニデス』でそれまでの「イデア論」を自己批判しているのであって、
アリストテレスはそれを意図的か否かは別として、それを無視し、プラトンを
叩いているのだった。

71 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/27(火) 18:07:05
アリストテレスは「質料」と「形相」という概念を考察し、プラトンの
「イデア」はこの「形相」に相当するので、この地上から切り離された彼岸を
想定する必要はないとした。だが、本当にそうなのか?
このアリストテレスの言う「形相」ではプラトンの言う「想起」を説明できない
のではないのか?

72 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/09/27(火) 18:12:58
>>68の続きを言えば、
「神を求めるのではなく、愛を求めよ。
愛が神であるのなら、それは神をも求めたことになるのだから、それで良い。」
とでもなろう。

だが、勿論、そういう人があってもいいが、そうではなく神を求める人も
否定される謂われはない筈だ。
これは一つの試論であるから俺の結論ではない。
俺は揺れ動く。

73 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:15:24
電波炸裂拳

74 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:17:31
何かを読む、記憶することについて


「読めるということ」、「記憶できるということ」がまず、俺のすぐ真近に
迫って来ていなければならない。
それが、「肉」だ。
それが「血肉」を得るということだ。
「魂」とは脳が「量子コンピューター状態」になっていられることだ。
粗く限定して言えば、「読む」、「記憶する」、「読めない」、「記憶できない」は一つの
「肉の厚み」として存在する。

75 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:18:38
それは「読める」や「記憶できる」にしても「読めない」や「記憶できない」を「参照」にし、
隣り合い、その「総体」によって一つになっているということ。
その人間のその今の状態がその高速回転に適さない場合、「肉の切り分け」のようなことが
起きる。その人間は「意図的に読まない」を選択することもある。
その「意図的に読まない」という「肉」の摂取がその高速回転にとってのいつの日にか、
糧になるために。


76 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:19:51
その理屈の上で乳児及び幼児は「読める」、「記憶できる」という「到来」が最もシャープ
である場合が多い。そして、それこそが「魂」である。

77 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:20:57
「文字」として「書く」あるいは「出力する」ことが可能である場合。
それは、「思考」及び「読む」もしくは「読める」、「記憶する」もしくは「記憶できる」というものが、
自在に手足、指を持ち、それを「使いこなせている」という感覚ではないのか?
「文字」として「出力」できない場合、それは「思考」などから手足や指が捥ぎ取られた感覚になるのではない
のか?

78 名前:名無しちゃん…電波届いた? :2005/10/03(月) 13:24:44
キミはどうも「名前」に踊らされてる傾向があるね

79 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:26:15
幼児は文字を書けない。しかしその場合は例外である。
幼児が「書けない」のは、「書けない」という「塊」を経験しているのではない。
この「塊」とは捥ぎ取られた「手足」もしくは「胴体」である。

80 名前:73876 ◆bY1AqcNwl. :2005/10/03(月) 13:39:30
では捥ぎ取られた「手足」と「胴体」は「くっつく」ことがあるのか?
それはよくある。
それは、そのように宇宙が組み合うことによってだ。
組み合うまでが、一つの闘争状態になる。


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